現実世界は、真剣に生きていれば生きている程、不器用であれば不器用である程、生きにくいものです。

道成寺と弱法師の2つの物語は、不器用な人間達の物語です。ある者は「顔」に、ある者は「世界の終わりの景色」に固執しています。

それが故に、彼らは傷つき、悩み、苦しんでいます。

 

道成寺では、「顔」=「感情」を捨てて生きる事を選ぶ女が描かれています。顔に固執して生きている彼女を取り巻く人間達は、自分は特別な存在だと思いながらも、常に周囲の目を気にしています。いわば彼らは、高価な骨董品を気取った大量生産の既製品なのです。彼女にとって「顔」を捨てるという事は、大量生産の既製品になることを示しています。

一方、弱法師では、主人公の俊徳は固執していた「世界の終わりの景色」を捨て、それを「静かな入日の景色」だと思い込む事を選びます。我々が悲劇的な景色をいつしか忘れてしまう様に。しかし、そうすることが一番生きやすい生き方なのです。

 

そういう意味で、どちらの作品も登場人物が人間として後退していく、という解釈をしています。それが悲劇なのか喜劇なのかはわからないけれども、特別ではない、弱くて格好悪い普通の人間の姿をそこに描ければと思います。

三島由紀夫の作品の登場人物が、特別な存在で、強くて格好いい、普通の人とは違った人間だからこそ。

演出  田丸一宏