演出ノート

死は怖い。とにかく人と比べても僕の死への怖れは、人一倍大きいと思う。

この作品の一般的な解釈は、どうやらこの3人は死んでいるらしい。戯曲中に死への言及はないものの、これだけ細かくト書きで指定されて、ト書き主導で書かれている戯曲を読み替えるというのは、凡庸な自分の才能では至難の業で、どうやら死の話という呪縛からは逃れられなそうである。

 

では、今、この時期、この時代に死をどう描くか死とどう向き合うのか。

どんなに情報が溢れても、死後の世界だけは今のところ解明されていない。死後の世界なんてない、と言ってしまえば元も子もないのだが、生きている多くの人間は死後の世界というファンタジーを持っている。自分の死が間近に迫った時、身近な者の死を目の当たりにした時、人は死後の世界を想像せずにいられない。ある意味で死後の世界などないと言い切れる人は幸せかもしれない。

ただ我々が想像出来る死の世界というのは、冷たく、この戯曲中に書かれている「地獄のみたいな薄明かり」である。他のセリフで言い換えれば「沈黙と暗闇」。

死後の表現は、数年前まではそれでよかったかも知れない。世界で破滅と破壊が繰り返されてる今、あまりにもそれでは救いがなさ過ぎる。新しい死後の表現があってもよい気がする。そして、それを演じるのは「俳優」であり、それは作りものである「芝居」であって、なんといってもタイトルも「芝居」なのだ。

 

映画監督で演出家のルキノ・ヴィスコンティが死について言及している言葉があって「私は死は怖くない。死ぬということは、見世物小屋やショーへ行くのと同じように考えているからだ」。どこかで読んだ本だし、正確にこういう風に書かれていたかどうか記憶は曖昧だけれども、ヴィスコンティのこの言葉はこの作品を作る上での大きなヒントとなった。

 

演出  田丸一宏